昭和42年01月14日 夜の御理解
椛目の信心の生き方て云うか在り方という、椛目と云うよりも、ま私大坪総一郎自身の生き方と云った方が良いかもしれん。私の在り方と云った方が良いかもしれん。その私の信心の在り方というものを、皆さん、やっぱり体得して頂き、皆さんのものにして頂かなければ、云うなら、椛目通いの値打ちはないと私は思う。云うなら、私のま流儀だという事にもなります。
先日から申されております様に、例えば人から笑われてもそしられても、これが本当だと思うたら、それを貫かせて頂くという事。云うなら人から笑われても、神様からは笑われてはならんという生き方。これが最近の殆どの人達の生き方の中には、非常に合理的な、人からも笑われん、神様からも云うなら笑われんと。そう云う風に都合よう行けば良いのですけれども、家庭においては、そんな訳にゃいかん。
後で合点してもらうだけの事であって、ですから、そこんところを、私の場合なんかは、非常にはっきりと、人がよし笑うても、悪口を云うても、神様からは笑われてはならんという、この生き方が非常に強いという事。と同時に、成り行きを大事にするという事、大事にするという事ではなくて、それを非常に尊んでいくという事。またはそれが激しい修行になってくる時には、その成り行きと愈々取り組んでいくという事。
いわゆる、その対決を迫られる時、自然の成り行きというか、自然のその働きと成り行きとか、その対決を迫られる時に、私共はそこを元気な心で、または合掌して有り難く、それを元気な心で頂き抜いて行くという事、その事だとこう思うんです。そこんところが、なぜ有り難いかと、そうして行く事によって、なぜその有り難いかというと。例えて云うならば、この度の久保山先生のお国替えの事についても、そうである。
成る程、お国替えその事は、椛目にとって大変なマイナスであると同時に、悲しい事であるけれども。けれどもやはり、これが神ながらであるんだなあと、神ながらのお国替えであるんだなという事を、その後に先に、神様はもの云うて下さる様に、または、こうであろうがと、見せて下さる様に、そこんところの自然の働きというものがです、もなんとも云えん、成る程、これでは神様のご都合であるなあ。
神ながらのお国替えであるなあと、こう思わせて頂けれる様なおかげが、頂いていけれるという事、酷の中に。例えて申しますと、今朝から、総代の永瀬さんが、今朝ご神夢を頂いておられる。椛目全体の者が、こう、軍用自動車の様なものに乗って、その、ま、行進をしておる。ところがその、行く手にあるところの堤防が、一寸決壊しておる。それでその、それの進む間、小休止だと云うておるところを頂いたと。
確かに、椛目の場合、ま、一つの堤防の決壊状態であり、そこんところを修理中であるという感じである。ですから、そのできる間は、やはり、小休止という感じがです、もうお広前全体にそれを感じます。同時にご造営なら、ご造営という事においても、それを感じます。例えて云うと、あの3日から、大工さんが仕事開始になられるのが、おそらく今日あたりから、また、明日あたりから、始められるのじゃなかろうかと思われる事でございます。一事が万事そんなものを感じます。
成る程、小休止の状態であったと。そこで私は、その事を永瀬さんに申しましたのでございます。そしたら、永瀬さん、もうおかげでその小休止が終わったんでしょうと。明日あたりからは、云わばもう、進軍し続けて良いのだろう。いや行進を始めて良いのだという事は、昨日、昨夜です、遅う京都からお簾が到着しました。ですから、その事を感じます。と、例えば、私は申します。
皆さんはそのところお判りになるだろうか。簾という事はあのお道を穢す信心を汚す、心配をさすと、こう仰有る。確かに今度の久保山先生の事は、神ながらな事ではあると云いながら、やはりお道を穢す事にもなろう。また信心を多少なりとも汚す事にもなろう。また心配をさす事にもなったろう。けれどもそれを奉らして頂くという、今日先ほどその簾を全部3段になっとります簾が、実に豪華な簾が出けて来ております。
それを全部掛け終わらせて頂いてから、それを感ずるです。これで簾を奉る事がでけた。さあこれからいわゆる、その決壊の修理はすんだ、ここからまた次の目的地へ向かって、行進を始めて行く事が出来る、と云った様な感じなんだ。そう云う風にですね、もう成り行きはいつも合点が行く様な働きを、私どもに見せておって下さるという事です。これはもうその例を云うなら、もう限りがない事でございます。
椛目の場合本当神様の御神意のままであった事であるなあ、神様のご都合であったなあとそこで私共がそう云う様に、椛目で現れておる所の自然の働きの中に、神様がもの云うて下さる様な姿を、又は場合に見せて下さる様なそう云うおかげを頂かせて頂きながら、そのおかげが是に感じられ、それが頂けている為に。日頃いかに成り行きを大事にしておかなければならないか、成り行きを尊んでおかなければならないかと。
また、場合によっては、それと対決して、それにうち向かう、それに取り組んで、そこを云うなら、勝ち抜いて行くところの信心が必要であるかという事が判るでしょう。そこが、だから、非常に楽しう信心が出来るという事なんだ。いかに話しに、神様のご都合だと聞いても、いかにおかげですよと聞いても、どうもおかげとは思われない、ご都合とは感じられない。
そこに不平があり不足があり、いわば難儀な事であるならば、悲しみがあるのでございます。それではいわばお道の信心にもとるのですけれども、椛目の場合はそこにはっきりと成り行きがです、それを示してくれるいつも。そこで例えば私が申します、成り行きを大事にして行くという事は、ほんならどう云う事か。又はそう云う成り行きと自然の働きとです、場合にはそれは自然の猛威と云った様な場合もある。
嵐じゃとか大雨だと感じられる様な時もあるけれども、そこを有り難く元気に抜けきって行く所の、私は稽古と云うものを、日頃どういう風な形でさして頂くかという事。例えて云うならそう云う意味で、私は表行なんかは非常に尊い、それを対決していくための、一つの、日頃の訓練とでも申しましょうか、には一番適当な事であるとこう思うですね。例えて云うなら、修行の為に甘いものを断っておるという人もある。
又は辛いものは頂きませんという人もある。朝何時には必ず目を覚まし御祈念にお参りしますという人もある。だか、場合によっては眠たい事もあるけどもそれこそもう、今日だん御無礼しようかというごたる時もあるけれども。それに打ち勝って行くという稽古が私はそうだと思う。甘いものを断っておるという人がです、もうそれこそ是からも手が出る様に目の前にその甘いものが、見せびらかされる様に出される様な場合もある。
そう云う働きと対決して行くという事。それをグッと抑えて行くという事、それを辛抱し抜かせて頂くという稽古。辛いものを断っておるという人がです、もう本当にその飲まなければ居られない、食べなければ居られない、いやもう、お許しを頂いておるかの様にです。いわば目の前にこう押し出される様な時があるけれどもです。その自然のそうした働きとです、本気で対決して、それに打ち勝って行くという修行。
そう云う意味で、私は今晩のご理解はですね、非常にこの表行の大切さは、そこにあるという様な事を、今日は実感しました。いかにこの成り行きを尊ばなければならないかと。自然に起きてくるその事を尊ばしていなければ居られない事も、そのまたございますけれども、場合によってはです、本気でそれに立ち向かわなければやりきれない程の、いわば対決を迫られる様な事がございます。
だからそう云う時にです、そこを楽々とやってのけて行けれるところのおかげを頂く為にです。私どもは、やはり常日頃の信心のそうした訓練というものが、心を鍛えて行くという事がです、信心を鍛えて行く事がいかに大事かという事が分かる。そこに例えば表行なんかが非常に生きて来るんです。自然との例えば、本当にもう吹き折れはせんかと思う様な、強い風が吹いて来る時でも。
それをどっこいとこう受けとめて行けれる稽古が常日頃でけて居る。それに対決する事が、ガッチリ四つに組んで行く事の稽古を日頃しておるんです。そこにです自然が例えばの働きがです、この様なおかげを受けても良かろうかと云う様な働きがです、自然の中に私は受けて行かれる。でなかったらもう本当にやって行けない様な事が沢山ある。そこに私は、本当の徳を積んで行く為の信心修行というものがです、ガッチリとでけて行くところのおかげを身につけて行くのです。
椛目の信心の有り難いところと云うよりも、私の信心のま有り難いところと云った方が良いかもしれん。私の信心の云わば愈々ここんところを、椛目の信心の稽古をするなら、体得せんならんという事はです。その生き方においてです人から笑われても、神様からは、笑われちゃならんと。桂先生の御教えを以ってすると親に孝行をし、神に不孝をしそして親に不孝をしておる氏子があるとこう仰る、神に孝行をして親に不孝をしそして後に親に孝行をしておる氏子があるとこう仰る。
ここんとこだけは親に不幸をしてと云う時には、信心しよってどうした事じゃろうかと云われる様な事もあるけれども、神様の方への孝行を第一にしておる。それを始めから神様にも孝行、親にも孝行という様な事ではです、その真実の云わばおかげにはなって行かないという事をです私は思います。そして後に親孝行さしてもらうと云う様な時に、始めて親にも神様にも両方に親孝行させて貰えると云うおかげを受けられる。
そういう生き方が、椛目には非常に強いという事は、椛目の信心の、一つのこりゃ特徴だとこう思います。これだけでもやはり日頃、やはり修行がしっかりでけて居らなければ出来る事じゃございません。先生はああ仰るけれども、人がまた笑ちゃならんから、人がとやこう云うからと云った様な事になってしまうのです。それにかまけてはおかげにならんのです。と同時に成り行きを大事にする。
尊ぶいわば成り行きと場合によっては、対決してそこに勝ち抜いて行くという生き方。そういう生き方からでないとです、もうその良しにつけ、悪しにつけです、成る程神様のご都合だなあ、神様のお働きの中にあるんだなあという実感を、人間凡夫でございますから、それを目の前に見せてもらわなければです。例えば今日は、久保山先生ところの10日祭でございましたけれども、若先生と2人参りました。
もう本当に、本当にそれをおかげと実感しておらなければ、とてもあぁいう祭やらあぁいうお祭りのあり方、私どもに対するところのあり方というものは、とてもあんな風に出来る事はありはしません。もう本当に信心とはなんと有り難い事であろうかと思われるのですけれども、その云うなら難儀に直面しておる久保山の人達がです。もうここにもそこにも、神様の働き自然の働きを、もうこんなにも間違いがないんだという事を見たり聞いたりして行くからです、それが出来るのです。
ですから一歩も動くだんの事ではない、一歩でも後ひざる事ではないところのおかげ頂くところに、徳を受けていく信心がガッチリとでけて行くのです。その為にどうぞ皆さんがです日頃その成り行きと、そん時だけ成り行きに取り組んで対決して、そして勝ち抜いていく事は無理だから、やっぱりその事を日頃訓練しておかなければならない。為に私は表行は大変有り難い事であるとこう思うのです。その表行は。
例えば甘いもんは食べんぞと、もう決してと、心の中に誓う、神様に誓う、そすと神様がですね、わざとの様に、甘い物を目の前に見せびらかしなさる。そういう時にグッとそれと対決して、それに勝っていく稽古を日頃しておるもんですから、愈々その様な事が、自然の中に起きて来ても、それを有り難くはは、ここを受けて行く事が有り難いんだという事をです、その先の事が判る。神様どう云うご都合だろうかと。
こういう自分が、いうならよろよろする様な事を自分の目の前に起こして下さるんだけれど、この向こうに下さろうとする力というか、光というか、徳というか。それを思うただけでも、心の底にこう云うならニコッと笑いたい様な、元気を持ってそれに対決していく事が出来るのです。皆さんここのところをようっと分かって行ってです、ここんところを、私は、体得して行くと云う事がです、云うなら、私の信心を体得して下さる事であり、私の信心を皆さんのものにして頂く事だという風に思うですね。
どうぞ。